ブログ布留川のほとりから

第224回トーク・サンコーカンの前説 その2

2013年09月19日 (木)

 今回は布留遺跡の縄文調査の話をいたします。
 布留遺跡の調査は1938(昭和13)年に始まりますが、翌39(昭和14)年には布留(堂垣内)地区において縄文時代の調査が初めて行なわれ、出土した縄文時代の土器に「天理式」という型式名が与えられました。
 さらにこの土器を詳しく調査した島田暁・小島俊次両氏は、1958(昭和33)年に天理式とは縄文時代中期末から後期初頭の土器であることを発表します。その特徴には磨消縄文(すりけしじょうもん)と呼ばれる縄文紋様の表現があり、福田k1・k2式土器、中津式土器、北白川上層式土器などと同様の手法があることを突き止めました。
 この磨消縄文とは沈線で区画した空間を縄文地と無紋地で対照的に配するこの時期を特徴付ける手法のことで、もともと無紋地に縄文があったものを、わざわざ磨り消して無紋化することからこのように呼ばれています。以後、布留遺跡では布留(堂垣内)地区の本格的な調査を1983(昭和58)年に始め、1984(昭和59)~85(昭和60)年と1990(平成2)~92(平成4)年にかけて豊井地区(早期)で、1985(昭和60)~86(昭和61)年にかけて三島地区(晩期)で、1987年に杣之内地区(早期か)で縄文時代の遺物や遺構を発見しており、大きな成果を収めています。
 今回報告するのは、布留遺跡豊井(打破り)地区で出土した縄文時代早期の遺構・遺物に限らせて頂き、他地区の中後期や晩期の遺物については機会があればということにしたいと思います。
 ご存じの通り、縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分されており、早期は2番目に古い今から1万2千年前~7千年前の時期に当たります。この時期の中頃が今回報告する奈良県天理市所在の布留遺跡豊井(打破り)地区の年代になります。それではこの年代はどのように出てきたのでしょうか。その年代を測る物差しが今回報告する土器になります。
 土器の年代は現在の土器研究が進む中で分かってきており、出土土器の内容が把握できれば、それに当てはめることで理解することが出来ます。筆者もそれに倣いました。
 今回整理した土器は神宮寺式土器、黄島式土器、高山寺式土器、穂谷式土器などです。聞き慣れない土器ばかりですが、果たしてこの土器たちが、天理のこの時期の生活をどのように語ってくれるのか、その一部をトーク・サンコーカンでご覧頂こうと思います。

 

高山寺式土器

高山寺式土器

 

考古美術室 O 

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