スポット展示「折紙の世界」その2
2021年04月19日 (月)
井原西鶴『好色一代男』(元和2年/1682)の主人公世之介7歳が「或時は、おり居をあそばし、「比翼の鳥のかたちは是ぞ」と給わりける」という描写が、折紙(=おり居(おりすえ))を楽しむ様子の初出とされています。「比翼の鳥」とは、おそらく現代の折り鶴のようなものだったと思われます。
このように江戸時代にはいると、子どもが折り鶴をつくるほど紙が大量に生産され消費されるようになります。併せて室町時代以来、上流武家で整備されてきた礼法が、下級武士や町人の間にも浸透していきます。礼法では儀礼や物を贈答する際、物の飾りや包み方に独特の紙の折り方を編みだしました。結納の「熨斗鮑包(のしあわびつつみ)」や三三九度の提子(ひさげ)に飾り付ける「雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)」が一例です。
これらがつながって、江戸時代には遊びとしても紙を折るようになったのです。遊びとしての折紙、遊戯折紙を楽しむには、自由に使える紙と時間的な余裕が欠かせません。礼法を知り、紙を扱う寺子屋の師匠も遊戯折紙の普及に一役買ったことでしょう。
図1は、寺子屋で師匠が「ほうびにやるぞ」と左の少年に折鶴を渡し、右の少年は「おれもほしいが」とつぶやいて清書に励んでいます。このように、元々遊戯折紙は、礼法の流れもあって「男子の嗜み」でした。それがやがて「女子どもの遊び」に変容していきます。
図2は、文化3年(1806)に大坂で大流行した福助の折り図です。この展開図は、太線と細線で現在の山折りと谷折りを区別して表示した最古の資料であり、大変貴重です。遊戯折紙は、当初上方で盛んにおこなわれますが、大店の旦那衆の心得ごとだったのかもしれません。『好色一代男』がその初出というのも頷けます。
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