観光都市奈良は17世紀半ば頃から様々な絵図を刊行しています。
日本全体で見ますと、現存最古の刊行都市図は寛永3(1626)年頃刊行の京都の都市図「都記」(みやこのき)とされています。
江戸図は寛永9(1632)年頃刊行の「武州豊嶋郡江戸庄図」が古く、大坂では林吉永が明暦元(1655)年に刊行した版図が早いものです。奈良町を中心とした都市図である奈良図の場合は、寛文6(1666)年、奈良の尾崎三右衛門刊行の「和州南都之図」(以下、尾崎南都図)が現存最古とされています。
この尾崎南都図は東を上とした縦長形で、京都図である「都記」や慶安5(1652)年山本五兵衞版「平安城東西南北町并之図」(以下、山本京図)などに影響を受けていると言えるかもしれません。町域を墨色で塗り込めたように表記するところも尾崎南都図・都記・山本京図の3図は同じです。なかでも山本京図は中心町域を機械的な碁盤目状に表現しますが、図周辺部の東寺などの寺社堂宇は絵画的に表現しています。この点が尾崎南都図も共通しています。
例えば尾崎南都図(1666)では東大寺の大仏は建物の無い露座の状態で絵画的に描出されています。
同寺大仏殿は永禄10(1567)年、戦火で焼失し、大仏は雨ざらしとなってしまいましたが、江戸時代に入り、世情が落ち着いた元禄5(1692)年には大仏の修復も成って開眼供養がなされ、仮設の覆屋が設けられます。続いて宝永6(1709)年に大仏殿の落慶法要が行われました。元禄の開眼では一ヶ月に30万人、宝永の落慶では15~18万人もの人々が奈良に押し寄せ、観光都市奈良の歴史はこの時に始まったとも言われています。
奈良ではこの一大イベントに合わせるように奈良図や東大寺周辺の案内図の刷物(すりもの)が刊行され始めます。この時代背景で刊行されたもののひとつが先述の尾崎南都図と言えるでしょう。宝永6(1709)年には同図を踏襲した同名異版の絵図が南都暦師の関係と思われる山村の刊行で出されています。この図も東を上とした縦長形です。
その後、安永7(1778)年には渋川清右衛門版の「和州南都之図」が刊行されます。これは版面(はんずら)をコンパクトにして町域を黒く塗りつぶさずに白く抜いた改変がなされているものの、やはり東を上にした縦長形です。
遠回りしましたが、ようやく登場、掲出の元治元(1864)年刊行の絵図屋庄八版「和州奈良之絵図」です。本図はこれまで述べてきた先行図の縦長形とは異なり、横長形で、町域は白抜きで製版され、山川・寺社・陵墓などは絵画的に表現されています。同様図は他に天保15(1844)年版、明治12(1879)年版が存在します。天保版は本図よりも一廻り小さく、明治版は本図とほぼ同寸です。この元治版奈良図の版元である、「絵図屋庄八」(以下、絵図屋)は近世~近現代と、古都奈良で案内図などを刊行し続け、また、現在に至るまで存続している貴重な版元として有名です。絵図屋の創業は、少なくとも明和6(1769)年刊行の版本『大和国奈良并国中寺社名所旧跡記』なる大和一円の名所案内冊子や、明和7(1770)年刊行の一枚刷「西国巡大和廻方角絵図」(さいごくめぐりやまとまわりほうがくえず)なる西国一帯の案内絵図を刊行した「井筒屋庄八」が絵図屋の祖とされていますので、その頃には案内書や案内図を頒布していたと言えるでしょう。
では、この絵図を少し詳しく見てみましょう。寸法は縦49cm×横67cm、屋外で広げて扱うには少し大判です。畳上で座視するには丁度良いかも知れません。東を上とし、春日山などを背にした春日社、東大寺、中央に興福寺を置きます。町名は路上に記しています。周辺部には天保版以上に元明・元正・成務・平城・孝謙<称徳>・開化・安康・垂仁などの陵墓が絵画的表現で追記されているのが分かります。
また、左上隅には寺社の年中行事の期日や、奈良町の中心である橋本町を起点とした近隣名所寺社までの方角と距離を、東を上にした円盤(コンパスローズ<方位盤>のようなもの。仮に方角円盤とする)に示しています。この方角円盤は例えば、道中図「改正大日本方角指掌全国(ママ)」(菊岡沾涼原著、明和6/1769年改)の中に大坂高麗橋起点で東を上にして既に本図の70年以上前に採用・表記されています。
さらに、中央のひときわ大きい黄色い四角は奉行所(慶長18/1613年設置の奈良奉行所)で、ここは現在、奈良女子大学(明治41/1908年設立)の敷地となっています。奉行所としては日本一の規模を誇り、大和の幕府直轄領の支配と寺社監督を務めました。奉行所の左やや上の縦長四角は代官所(寛文4/1664年設置)で、その後、大和南部の五條に移され(寛政7/1795年)、明治を迎えます。この奈良町の代官所跡地は明治に入り、監獄所、昭和16~42年は警察学校、現在は天理教梅谷大教会の一部となっています。本図中央の興福寺の中にある最高の格式を誇った塔頭のひとつ一条院は廃仏毀釈により、明治に奈良県庁となり、現在は奈良地方裁判所が建っています。
こうした全国各地の名所旧跡を描いた一枚刷の絵図は、時代と共に移りゆく風物の生き証人のひとつとして、大切に後世に伝えていきたいものです。