令和4年の干支は寅です。干支の順番にまつわる民話によると、要領の良いネズミと真面目なウシに続く三番手がトラです。アムールトラが獲物に飛びかかって仕留めるとき、跳躍は高さ5m、距離は10mに達するそうですので、トラの勢いをもってすれば一番間違いなしのようにも思いますが。
それはともかく、現在では生息する地域が限られていますが、トラは毛皮の美しさや圧倒的な強さから古来世界中で様々なイメージが作られ、表現されてきました。日本でも、動物を題材とした玩具はたくさん作られていますが、そのほとんどは親しみのある身近な小動物です。異国の猛獣をモチーフにしている点で、虎の郷土玩具は異色といえます。見たこともない動物をユーモラスに玩具化しつつ、凄みも加味した優品が数多く存在します。
虎が日本で初めて見世物に登場したのは、江戸時代の延宝3年(1675)大坂の道頓堀でした。「虎のいけどり」と記録が残っています(『芦分船』)。しかし、それ以前に既に虎の玩具が売り出されていました。これも大坂で、「道頓堀の真斎橋に人形屋の新六といへる人、手細工に獅子笛あるひは張貫(はりぬき)の虎、(中略)拵へ」(『男色大鑑』)と記録があります。張貫とは図版のような張子のことで、紙製です。虎の人気は、中国の虎王崇拝の影響や毘沙門天信仰、さらには尚武と子どもの強健を願うことなどからそれまでに広まっていたのでしょう。
幕末にコレラが流行した際には、病名を「虎狼痢(ころり)」と表記されたことにもよるのか、大坂道修町の薬種問屋が虎の頭骨など和漢薬を調合した「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)を売り出して大人気だったようです。下段左から3番目(写真2枚目)は、道修町の少彦名(すくなひこな)神社の神農祭の祭礼で頒布される疫病除けの張子の虎です。これは、神前で祈祷した印に、虎のおなかに「薬」と朱印を押して薬効が高い五葉笹に吊るして授与されます。五月人形飾りに虎の人形を添えるのも関西独特の風習で、関東では見られません。関西人の虎好きはこのころから始まっているのでしょうか。
なわばりが広い虎は「千里往って千里還る」という縁起から、太平洋戦争中は「戦捷虎(せんしょうとら)」と銘打って、虎玩具を出征する兵士に持たせたりもしました。図版の虎玩具は、愛らしい猫にしか見えないものから猛々しく咆哮するものまで多様です。虎の力強い生命力にあやかって疫病退散と願いたいものです。