掲出は昭和2(1927)年、阿倍野橋~平野で営業を開始した大阪市営バス開業当初に発行された乗車券です。1区6銭、2区12銭で、全線2区でした。営業開始予定の他路線の停留所名も記載されています。
大阪市内のバス事業の草分けは、明治36(1903)年に民間事業者が梅田~恵美須町に蒸気バスを走らせたことに始まりますが、同年に開業した市電との競争に敗れ、明治41年に解散しました。その後、大正11年には大阪市が阿倍野橋~梅田にバスを走らせる計画を立てますが、大阪府より時期尚早とされたため計画は一時中断となりました。
しかし、大正12年に民間事業者(大阪乗合自動車)に許可が下りることとなり、大正13(1924)年7月から市内中心部の堺筋、四ツ橋筋、上町筋(南北線)において、大阪乗合はバスの運行を開始し、並行する市電の利用客を奪いました。
これに対して大阪市もバスの開業準備を進め、昭和2(1927)年2月26日、市内周辺部の阿倍野橋~平野4.8 キロの営業を開始しました。昭和4年にはようやく市内中心部の堺筋と上町筋で運行を始め、青色の車体の「青バス」(大阪乗合自動車)と銀色の車体の「銀バス」(大阪市営バス)の激しい競争が繰り広げられました。それは運賃割引や景品プレゼント、観光・温泉地への招待など採算を度外視したサービス合戦の様相で、影響を受けて市電乗客数は更に減少し、昭和6年からは赤字となりました。
しかし昭和12年頃には戦時体制の中、この競争も収束に向かい、昭和15(1940)年6月1日に大阪市が大阪乗合自動車を完全統合し、市内バスは一元化されました。
大阪市営バスは、英国ウーズレー社製のエンジンに日本製の車体を架装した18人乗りのバス5台で営業を開始し、大阪乗合自動車の女性車掌に対抗して少年車掌が乗務していました。大阪乗合自動車の営業線との競合のため、先述の通り、当初は市内主要路での営業が見送られ、合併で新市内となった、平野と阿倍野橋の間で営業を開始しました。平野街道は当時未舗装だったため、大阪市が道路中央に二条のコンクリート舗装をしましたが、当時まだ多かった大八車や馬車もその舗装の上を走ろうとして、定時運行に苦労したという話も残っています。
本資料は、2019年10月9日(水)~12月2日(月)開催の第85回企画展 Osaka Metro開業1年「大阪市営交通114年の軌跡」にて展示しています。