幕末から明治初期にかけて、主に京都・大阪において、西洋からの外来技術を基とした銅版印刷によって、名所・寺社などを描出した素朴な銅版画が世に出ていました。その大きさは絵葉書や名刺ほどのものがほとんどで、錦絵版画のようにB4サイズに近い大判(39cm×53cm)のものや多くの色を使って摺刷(しゅうさつ)したものはありません。北斎や広重の木版色刷による浮世絵版画は世界的にも有名ですが、表出のような銅版画は目にする機会も少ないのではないでしょうか。
日本の銅版画は天明3年(1783)、江戸において司馬江漢により創製されたことにはじまります。その後、19世紀初頭から銅版画の潮流は江戸から上方(かみがた)に移り、京都の玄々堂、岡田春燈斎、大阪の中伊三郎らと、それらの門人たちが作品を残していきます。
表出の画作者である浪花文雅堂:中川信輔(生没年不詳)は蘭学(らんがく)と関わりの深い中伊三郎(なかいさぶろう、?-万延元/1860)の門下で大阪の人。作画期は嘉永から安政(1840-50年代)頃にかけてとされていますが、玄々堂や岡田春燈斎などと比較すると作品は多いとはいえません。
表出は大川(旧淀川)に架かる難波橋を下流の中之島東端付近から見た構図を取ります。手前から、難波橋(なにわばし)、天神橋、天満橋が架かり、多くの人や物資を運ぶ川舟が行き交っています。右手には大阪城の諸櫓も見えており、水の都大阪にふさわしい一図といえるでしょう。
長崎大学附属図書館にはこの大胆な構図と同様の幕末明治初期に撮影された古写真が残っています。また、同時期に大阪心斎橋北詰塩町にあって、写真師として名を残した中川信輔はこの銅版画師文雅堂と同一人物かも知れません。