天理参考館
TENRI SANKOKAN MUSEUM

参考館セレクション

世界の生活文化五月人形「鯉の上に金太郎」(ごがつにんぎょう こいのうえにきんたろう)

奈良 大正14年
全高38.0cm
資料番号:2003J8

展示中 1-0

大型連休の終盤を飾るのは「こどもの日」です。制定の由来は、古から続く端午の節句です。
木々の緑が鮮やかで、爽やかなイメージがある5月ですが、古代中国では忌むべき悪月と考えていました。旧暦で考えてみてください。ちょうど梅雨に入る頃、湿度が高く疫病が流行りやすい季節です。そのため、端午には凶事を祓う行事を行いました。日本にもそれが伝わり、粽(ちまき)を食べたり、菖蒲湯に入ることなどが現在も続いています。
破邪の行事として、競馬(くらべうま)や騎射(うまゆみ)など勇ましい行事が宮中で催されたことが、後に男子の節句と意識される下地を形成していきます。江戸時代になると、家を継ぐ男子の誕生は最大の慶事であるという武家社会の考えから、幕府は端午の節句を重んじます。寛永19年(1642)、後に四代将軍となる家綱の初節句はことに大がかりでした。この頃から、武士も町人も男子の健やかな成長を願って端午の飾りを始めます。当初は外飾りでしたが、次第に内飾りへと変化します。「うちには男の子がいるよ!」と誇らしく主張する意味が外飾りにはありましたが、江戸は火事が多い大都市、幕府が防災の観点から規制した結果、次第に室内に飾るようになりました。そのなかに五月人形があります。
人形にはその時代の考えが鮮明に投影されています。五月人形も、江戸時代には英雄豪傑、歌舞伎などで親しみのある人物が好まれました。そのなかでも第一の人気者は浮世絵にもしばしば登場する金太郎です。「十人が九人鍾馗(しょうき)か金太郎」という川柳があるように、特に江戸では鍾馗と人気を二分しました。雷神と山姥(やまんば)の間に出来た子どもで、健康そのものの赤みを帯びた身体に腹掛姿、怪力でまさかりを担ぐ金太郎は大いに好まれ、熊や猪など動物を伴っていることも人気の原因でした。このようにたくましく育ってほしいと願ったからでしょう。
この金太郎は、奈良の旧家から受贈した端午の飾りの一部で、京都製と考えられます。思慮深い表情で鯉にまたがり周囲を睥睨(へいげい)する様子は、このまま龍門を登りきって天空を翔け巡るかのようです。現代では、人形よりも鎧飾りが好まれています。人物中心だった歴史教育が大きく変わったこと、歌舞伎のヒーローが馴染み薄になったこと、そもそも男の子に人形?という思考の変化が要因と考えられます。しかし、端午の節句を祝って、子どもの健やかな成長を願う思いは今もむかしも変わることはありません。