令和5年の干支「卯」にちなんで、うさぎの人形をご紹介します。これは日本各地にある土人形の祖と称される、京都の伏見人形の裃兎です。土人形や張子人形などの郷土人形には動物を擬人化したものがたくさんありますが、これはその典型で、日の丸扇を持ち、裃を着用した兎が正座する姿です。白い彩色に入った雲母のきらきらしさの効果か、長い耳をピンと立てて端座する様子は新春を言祝ぐに相応しい飾り物です。干支では地の王「寅」と天の神「辰」に挟まれた、か弱い風情に見える「卯」ですが、月で不老不死の仙薬を搗(つ)く唯一無二の存在と特別視されました。
伏見人形は、伏見稲荷大社門前の深草周辺で生産される土人形で、同社の祭神が鎮座する神聖な稲荷山の土を用いて作られ、参道で売られたものです。稲荷神は農耕の神であるため、この土で作られた人形は、たとえ壊れても田畑に入れれば作物の出来が良くなる、土に帰ると尊ばれました。そのため江戸時代には参詣者が土産物として各地に持ち帰り、伝播した結果として全国の土人形の成立に大きな影響を及ぼすことになりました。伏見人形が土人形の祖とされる所以です。
この人形の背面に“稲荷割松や”の陰刻があります。割松屋は江戸時代創業の伏見人形窯元で、参道の正面に店を構えていました。ここは、歌舞伎を題材にした「成田屋人形」が有名です。7代目市川團十郎は名技と美貌で大層人気を博しましたが、大奥の女性たちから贈られた打掛をまとって舞台に出たことから幕府の忌憚に触れ、江戸を追われます。大坂で精進を重ねた團十郎は、所払いを許されて江戸に帰る前に、日頃信心していた伏見稲荷に参詣します。このとき割松屋を訪れ、自らの十八番であった助六、矢の根、暫の3つの型を取らせ、人形300体を注文して江戸への土産にしました。伏見人形の「元の土に帰る」といういわれに因んで江戸に持ち帰ったのでしょう。窯元それぞれに個性があり、割松屋の人形は柔らかい曲線と穏やかな表情が目を惹きます。大正14年には参道周辺に42軒あった窯元は、昭和初期に相次いで店を閉じましたが、割松屋も同様に転業しました。江戸時代から続く窯元は、現在では丹波屋嘉助こと「丹嘉」1軒を残すのみで、8代目当主が伏見人形の伝統を引き継いでいます。