平成から令和へと時代が移り変わります。
令和元(西暦2019)年5月1日には第126代の新天皇(皇統譜による)が即位します。その初代が神武天皇とされています。
「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、東征に抵抗した大和の長髄彦(ながすねひこ)との戦いで苦戦続きの折、一天にわかに曇り、雹(ひょう)が降り注ぎます。そこへ突如雲の間から一筋の光がさしこんだかと思うと一羽の金色の鵄(とび)が飛来し、尊の弓の先に止まりました。止まるや鵄は一層光輝を増したため、長髄彦たちはまぶしくて目を開けていられず、ついには降参。後に尊は橿原宮で初代天皇として即位した」と『日本書紀』にあります。長髄彦は現在の奈良市富雄の豪族とも言われ、“鵄の尾”で「富雄」や「鳥見」という周辺の地名はこの伝説に由来します。
この人形は大正14年生まれの男子のために誂えられた京都製の節句人形です。箱書きにそれぞれ「神武天皇」と「随臣」と墨書があります。この「随臣」とは、東征の先鋒を務め、大伴氏の祖とされる道臣命(みちのおみのみこと)か、或いは服従した長髄彦をあらわしていると考えられます。
端午の節句は中国由来の風習で、田植え前の大切な時期に邪気を祓う意味合いが強く、人々はちょうど盛りになる菖蒲の葉の香気にもその力を感じました。江戸幕府が成立して、安定した武家社会が確立すると、端午の節句は武運長久を祈念する大切な日となりました。菖蒲が「尚武」に通じるからです。この日は諸大名が登城して将軍に祝賀を述べ、市中でも武家商家の区別なく男子がいる家は外幟を立てて人形を飾りました。明治維新後は節句行事が廃止され、新政府が制定した祝祭日が定められます。端午の節句も一時衰えますが、富国強兵の気運と日清日露両戦争の戦勝気分の高まりで復活しました。
「神武天皇」は江戸時代にはなく、明治以降に登場した人形で、当時の歴史教育が反映しています。古代から連綿と続く端午の節句は、「こどもの日」と名称を変えつつ国民の祝日として今も親しまれているのです。