近年、日常生活において蠅や蚊に悩まされる場面は減りました。これは様々な伝染病を媒介する害虫の駆除を目的とした、公衆衛生の向上を図る活動が全国的に進められたことが大きな要因として考えられます。こうした衛生環境の著しい変化に伴い、姿を消しつつある道具があります。日本の場合では、食事に蠅が集(たか)るのを防ぐ蠅帳(はいちょう)や、睡眠の際に蚊に刺されるのを避けるための蚊帳(かや)などが挙げられます。
一方、エジプトにおいて1959年に流通していたこの道具は、払子と書いて「ほっす」と読みます。エジプトは極めて乾燥した気候であることから、蠅が目や口といった潤いがあるところを狙ってきます。その対策として、払子の馬の尾毛が束ねられた穂のような部分を顔の前で振り回して追い払うのです。当時のエジプトは上下水道が整備されておらず、家畜の糞を燃料として使用していたことから、観光地において蠅に悩まされることは日常茶飯事でした。事実、この払子は、古代エジプトの遺跡で有名なルクソールで観光客向けに販売されていたものです。
道具としての払子のルーツを辿るとインドに至ります。その用途は、エジプトと同様に虫を追い払うことにありましたが、東アジアに伝播する際に意外な展開を見せることになります。それは仏教において煩悩を払う象徴的な道具と見なされるようになり、やがては仏僧の威儀を示すための法具となっていったことです。また、日本の戦国時代に大将が指揮をとる際に用いられた「采配」も払子に由来するのではないかという説があり、地域や時代によって用途と意義が多様に変容した興味深い道具といえます。