掲出は、北魏時代の爾朱紹(じしゅしょう)という人物の墓誌(ぼし)の蓋の部分です。墓誌は、後の時代になっても墓の主が誰であったのかを明らかにするために墓中に埋められた文をいい、土中でも保存されるように、専ら石、あるいは塼や金属などに誌文が刻まれました。中央部には「魏故司徒爾朱公墓誌」という銘文が記され、その四周には神人が騎乗する四神の文様、雲気文、花文などが緻密な線刻画で描かれています。この時代らしい芸術性を感じさせる魅力的な資料と言えます。
墓誌そのものは、現在は西安碑林博物館の所蔵となっており、その内容から爾朱紹という人物について知ることができます。爾朱氏一族は北魏末期に強勢を誇った有力氏族で、誌文によると、諱(いみな)が紹、字(あざな)は承世といい、北秀容の人で、爾朱氏の有力者である買珍の子息であったようです。この人物は西暦529年(永安2年6月23日)に28才で亡くなったらしく、同年11月7日に葬られたことが記されています。
西暦529年は南朝・梁の名将・陳慶之が北魏の首都・洛陽を陥落させ、梁に亡命していた北魏の皇族の北海王・元顥が洛陽に入って一時的に皇位を僭称した年です。まさに北魏末期の混乱の真っ只中であった時期です。一連の動乱では数多くの人物が命を落としていますが、爾朱紹もその動乱に巻き込まれて落命した人物の一人であったようです。爾朱紹について歴史書はほとんど何も語りませんが、墓誌が残されていたことによって我々はある程度この人物について知ることができます。墓誌の重要さがよくわかる例といえます。