写真は底部が平底気味で、体部の丸い不整形な壺です。よく見ると口縁部が歪(ゆが)んでいて、一見失敗品のようにも思えますが、これは古墳時代に朝鮮半島からもたらされたと考えられる壺です。
体部の外面にはタタキメとよばれる筋が文様のように付けられています。この文様は、土器を焼成する時に器壁の内部に空気が入っていると、膨張して割れてしまうので、板で器壁を叩き締めた時に付いたものです。この叩き板の表面に施された筋が写されたものです。更にこのタタキメをよくみると、3本1単位の扇形にひらく文様が横方向に並んでいて、これが体部上半に2列みられます。この文様は鳥の足跡のようにもみえるので、鳥足文(ちょうそくもん)タタキともよばれます。
実はこの文様をもった土器は朝鮮半島の百済の地域に分布していることが判明していて、百済から渡来した人々の存在を窺わせる貴重な資料となっています。
布留遺跡は古代の大豪族、物部氏の拠点集落と考えられていますが、これまでにも豪族の居館跡とみられる石敷や、大型倉庫などが発見されています。また、布留川から引水するための大溝が5世紀に掘削されています。掲出の壺はこの溝から出土したものです。こうした大型建物の建設や大溝の掘削などには高度な技術を要したものとみられます。このほか、布留遺跡では鉄刀や鉄剣などの鉄製品やガラス玉の生産をしていたことも判明しています。
布留遺跡では百済地域以外にも、朝鮮半島南部の伽耶(かや)地域の土器が出土していて、こうした作業には、先進技術を有した朝鮮半島からの渡来人が深く関わっていたことが推測されます。